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昨年の12月に父が亡くなった。
どんな親でも
さすがに親が亡くなれば
色々思い出して悲しい。
(そこはもうクリアしてる)
加えて父が亡くなる前後の
慌ただしさにかまけ
ブログを書く習慣を失った。
書こうという気はあるのだが、
行動に移せない。
そうすると余計に気が滅入ってくる。
CP的に言えば崖の下で倒れてた。
でも、間接的ではあるが
センターピースに助けてもらい、
こうしてまた
ブログを書き始めることができた。
(注)この記事は忘備録も兼ねてるので
長文です。
今までの父との関係
父とは高校生の頃に
進路のことでぶつかったり、
価値観の違いも大きくて
わだかまりがあった。
いいおじさんになっても
父のことは嫌いではないけど、
特に尊敬もしてないという
感じだった。
口にこそ出さなかったが
心の中で少しバカにもしてた。
センターピースの
ワーク中にも言ってたけど、
ポンコツなくせに頑固で、
少し邪魔な存在くらいに思ってた。
8年くらい前にも父と大喧嘩して
同じ家に住んでいるのに
1年以上話さなかったくらいだ。
そんな父も亡くなる一年前に
特発性血小板減少性紫斑病(ITP)
という国の指定難病を患った。
この病気のせいで
亡くなったのではないが、
それ以来、少し元気がなくなった。
車の運転も控えるようになり、
自分で買い物や通院していたが、
僕が病院に連れて行くようになった。
(それでも相変わらず頑固で
免許返納してくれなかったけど。)
でもおかげで最後の一年は
父と話す機会も増えて
少し仲良くなったし、
親孝行もできたと思う。
予想もしなかった父の病変
その一年間、父の血小板の数値は
低くなったり、普通に戻ったりを
繰り返してた。
でも難病ではあるが、
命に関わる病気ではなかった。
車の運転を
ほぼしなくなったことを除けば
そこそこ元気。
だが11月半ばになって
呼吸が苦しいと言い出した。
トイレに行くだけで
ゼーハー言うくらい。
素人目に見ても、
体に異常を来しているのは
明らかだった。
近場で血液内科がある病院が
限られていたので
がんじゃないけど、
がんセンターに通院していた。
がんセンターにも呼吸器内科はあり、
そこで検査してもらった。
入院になるだろうと思ってたが、
CTといくつかの検査をしただけ。
2週間後、また来て下さいと
言われただけで家に帰らされた。
その後の2週間、
父は立ち上がるだけでも
激しく息を切らすようになった。
あの病院大丈夫か?
という不安は拭えない。
そして2週間後・・・
父は病院に行ったら
生きて帰ってこられないと言い、
病院に行くのを嫌がった。
とは言え、
家で苦しそうにされてても
家族は困るので病院に連れてった。
結局、入院することになった。
検査の結果、肺だけでなく
心臓、肝臓、腎臓
体中悪くなっていた。
父本人も気づかないレベルの
心筋梗塞も起こしていたらしい。
医者が言うには
その日に心臓が止まっても
おかしくないとのこと。
つまり父の寿命は時間の問題。
突然そんなこと言われても
現実味がない。
その次の週に予定されてた
センターピースのセミナーどうしよう?
なんて思ってたくらいである。
がんセンターでは
がん以外は専門外なので
翌日には別の病院に転院した。
命の判断
転院先の病院での診断で
間質性肺炎だとわかった。
がんセンターはがん専門とは言え、
呼吸器内科を名乗っているのに
なぜわからなかったのだろうと
疑問が残る。
ドクターには集中治療室の中で
ある決断を迫られた。
いつ心臓が止まってもおかしくないので
その時は心臓マッサージはどうするか?
人工呼吸器が必要になったら
付けるかどうかの決断だった。
人工呼吸器について
短時間に説明されたけど
簡単すぎてよくわからない説明だった。
ただ血小板減少性紫斑病があるので
どちらもオススメはしないとのことだった。
つまり父の命を止める判断を
家族がしなければならないらしい。
その後、どうするか
父も含め家族の間で揉めたが
結局はどちらもしないことに決めた。
この時点になって
父との時間が残り少ないことが
現実味が帯びてきた。
すると自分の子供時代のことが
色々浮かんできた。
最後になって父からの愛情に気付く
父は家族以外がいる空間が嫌いだった。
だから外食や家族旅行など皆無で
それが父への不満だった。
でもその代わりに
家族を県内の観光地に
よく連れてってくれた。
小学校に入る前は
昔なつかしデパートの屋上の遊園地に行き
その後、レストランで食事が
定番のコースだった。
クワガタ探しにハマった時は
誰も行かない林を探し連れてってくれた。
家族以外がいる空間は
嫌いだったはずなのに、
学校で映画の割引券をもらった時は
映画館に連れてってくれた。
キャッチボールの練習相手もしてくれた。
30半ばに心身とも病んで
実家に戻った時は本気で心配してくれた。
その後、半引きこもりになっても
何も言わずそっとしておいてくれた。
他にも父がしてくれたことを
数え上げたらキリがない。
CPのセミナー中、
父からしてもらったことがない
なんて言ってたがとんでもなかった。
忘れていただけだったのです。
他の親と形が違うだけで
わかりにくかったが、
父なりに愛情をかけてくれていたのである。
もっと早く気づいていれば
父との関係も違っていただろう。
CP的に言えば
父から愛された記憶が薄かったせいで
崖ルートが始まっていたのかもしれない。
もっと早く父のしてくれたことの
捉え方が違っていたら
もう少し楽に生きられたかもしれない。
最後になって気付いて後悔はあるが、
気付かなかったよりはマシ。
センターピースを受講してなかったら
今でもこの崖ルートの一因に
気付けなかった。
センターピースを受講したのは
ちょうどいいタイミングだった。
長くなったので、次の記事
父の最期に続く。